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はじめに
旅が終わった時、この旅行についての感想文を書いてもらいたい、との依頼がフットファミリーより日本語通訳ガイドの私にあった。遊びで回った人達と違い、仕事で回った者の辛さを教えてやっても面白いかな、と考え引き受けることに決めた。
まずこの仕事が回ってきた時、(フットファミリーとはどんな人達なのだろう?)と考えた。色々想像していたのだが、空港で出てきた皆は、ごく真面目そうな日本人で安心した。
バスドライバーのローリーは、経験豊かでかつ控えめ、とても気の付くプロ中のプロだったので、旅行中ずっと助けられた。私は空港を出発するとすぐに、プロのふりをして、ガイドブックの最初のほうに書いてあった西オーストラリアの歴史を、まるで暗記しているかのように棒読みした。これはかなり効いたようだった。私は緊張しながら先生達のグループであるという皆の品定めをしていた。というかこんな私でも大丈夫だろうかと、ひやひやしながら皆を覗っていた。
雇用関係を無視した日本語ガイド一人相撲の旅行記、最後まで読んでいただけるやら。
6日(第一日目)、パースよりバンバリーへ
パース国際空港をスタートし、ベルモント市を通りパースへ向かう途中、初めてフットファミリーの謎が解けた。東京都足立区がベルモント市と姉妹都市の提携をしていて、皆は足立区で働いたり生活したりしている人達だったのだ。足立区の足がフットで、そのグループだから“フットファミリー”。名前がただの洒落で付けられたものだと解った時、(うむ、これなら私でもいけるかもしれない)、と内心ホッとした。パースよりワタリガ二の名産地マンジェラを通り、バンバリーに向けて走っている途中、他のバスは行かない“チュアートの木の森”をローリーが通り抜けてくれた。皆がそれを知った時とても喜んだ。私はこの旅は楽しいものになる、と予感した。私は木が大好きなのだ。皆も後には私の“木きちがい”に感化され、“アーまた木にこぶがあった”と喜ぶように教育されていくのだった。誰かが私の背後でタカはこぶ、こぶ、とこだわるが、きっと奥さんの胸にはこぶがないんだよ、と言って笑っていた。もし皆を我が家へ招く約束をしていなければ、“冗談じゃないよ、うちの多美の胸はそんじょそこらの胸と、訳が違う!”と怒って啖呵をきるところだったが、皆がうちにくれば、ばれてしまうので、私は静かに聞こえないふりをした。
それにしても憎きは息子の健志、人の女の胸を、一年五ヶ月もさわったり舐めたりしやがったから、無くなってしまったのだ。俺も奴に女が出来たら、同じようにやってやる。
200kmの短い距離だったので、お昼のチェックインで仕事が終わった。やれやれと思っていると、皆で酒を買いに行き宴会が始まった。あまりお酒を飲む機会のない私は困ってしまった。ここでは逃げ場がない、仕事だと思ってお酒を飲むしかないようだ。しかし私が酒の嫌いな事を、皆に気づかれずにおいしそうに飲むのは、非常に大変な仕事になりそうだ。オーマイゴッド!
7日、バンバリーよりペンバートンへ
本日はバンバリーよりマーガレットリバーを通りオーガスタ、そしてさらにペンバートンまでと言う強行軍。オーガスタからペンバートンまでの約二時間は夕方から暗くなる時間帯、見るものもなく疲れてきてしまうタイミング、話し下手の私でも何か話さなければいけない。もう教科書を読むような調子ではうまく行かないだろう。この時を境に私の地が出てきてしまった。前足灰色、後ろ足茶色の動物は?のなぞなぞから落ち始め(答え:下痢の象さん)、死体と遺体の医学的な違いが分りますか?などに及んだ。(答え:男が死体、女は遺体)答えを何度も繰り返し声に出して言うと、本当の答えが自然と出てくる。またこの答えにはさらにオチがありそれは“夫婦も五年もすると、立場は逆になる”である。
8日、ペンバートンでの一日
木に登る、列車に乗る、マロンを食べる、滝を見る、書いてしまえばこれだけの一日だったが非常に充実していた。私は高所恐怖症をはじめ狭所恐怖症、先端恐怖症、船酔いなど煩わしい病をもっている。当然61mもあるグロスターツリーには絶対登らないと宣言した。誰が登るのかな?と見ていると一番乗りは予想どうり高木氏、今井婦人も入っている。酒飲みで一番可能性が少ないと思っていた進野氏が登りだした。大きすぎて木に打ち込んである鉄の棒が外れそうだから登るべきではない、と考えていた中村氏も登りだした。皆私より体力のなさそうな人達ばかりではないか。
私の中にいる“嫌な虫”が出てきて軽く言い放ってしまった。“上で通訳が要るかも知れないので,行って参ります。”10mほど登って下を見た時、冷静な自分に戻った。“しまった、言わなきゃ良かった。”しかしもう遅い、いまさら降りるわけにはいかない。皆が勇敢な五名を見上げているではないか。とにかく目線を下げないで鉄の棒をしっかりつかむ事と、足を一歩一歩しっかりと鉄の棒に乗せる事に集中する。
小学校三年生の時友達と三人で農家に柿ドロボーに行き、うまく木から柿を盗った後、例の私の中にいる“嫌な虫”が出てきて大声で“柿ドロボー”と叫んでしまい、追いかけられて逃げ回った事がある。全てがうまく行っていた時だったので、二人の友達にしてみれば悪夢のような出来事だっただろう。ふとそんな事を、鉄の棒をつかみながら想い出していた。
上の方から“手が冷たい”と叫んでいる人がいる。冷たいなどと叫ぶ余裕のある人はまだ良い、私などは心臓が凍って声も出なかった。やっとの事で長い緊張の時間が終る。私は最後から降りて行った。勇敢な私達を皆で迎えてくれるに違いない、と思いながら余裕のあるふりをして降り立った。ところが、皆は近くのブッシュに群がっていたきれいなインコ達の方に集中していた。色とりどりのインコ達が、皆の手、肩、頭、に載り餌をもらっている。すばらしいシャッターチャンスがいっぱいあった。
この時の裏の立役者はドライバーのローリー、こういうタイミングを予測し、旅行の前からひまわりの種を車に用意していたのだった。すばらしい気配り、皆の心に残るひと時を、作ってくれた。お昼はマロン(淡水のイセエビと呼ばれイセエビよりあっさりした味で定評)が食べられるレストランに行く。マロンにはワインが良く合う、飲めない私は、特に仕事中でもあるので飲まないつもりでいたが、なぜか二杯目を自分でついでいた。
9日、ペンバートンよりウォールポールへ
ペンバートンを出発して、最初の停車はマウントフランクリン、ローリーが200mぐらい歩くと素晴らしい展望台があると皆に言って歩きだした。付いて行った私達はびっくり、おっと、これはオーストラリア人の200mじゃないか。実際には400mぐらいあっただろうか。それも、最後の100mは階段や石を登る登山だった。私は61mのグロスタツリーから降立った時格好をつけて“地球は丸かった”とほざいたが、私達は地球の丸さがもっと良く判る、大きな一枚岩の上に立っていた。上は風が強く寒かったが、下り坂で今回の旅行始めての、野生のカンガルー(ワラビーという小型のカンガルー)を見た。美佳ちゃんと怜ちゃんが昨日のインコの群れの時と同じように喜んでいた。
お昼にウォールポールに着いた。この町には、良いレストランがあまりないらしく、その夜泊まるホテルで夕食をさせようとローリーがホテルと話をしており、お昼にその為の味見を私とリーダーの長濱氏にさせる手はずになっていた。皆は町に出て昼食を取りに行く事になった。何故だかその時は分らなかったが、長濱氏は味見を辞退し、代わりに中村氏が私と行く事になった。レストランにとっては、今夜12人のお客を取れるかどうかの瀬戸際なのだった。そんな思惑をよそに我々は“昼食代がういた、しめしめ”と目を見合わせた(と思ったのは私だけだったかも知れない。)。料理人の得意料理と思われるカレーが出てきた。うまかったが辛かった。私は頭から湯気を出しながら食べた。中村氏はうまそうに食べていた。食べ終わった時、お礼を言う代わりに心配そうに見ていたウェイトレスと料理人に言った。“今夜7時、12人のテーブルをお願いします。”
午後は巨人の森、長濱氏は皆の事ばかり考えて行動している。今になって考えてみると、昼食を辞退したのも長濱氏らしい判断だった。私のように昼食代がういたなどとは考えていない。巨人の森にある地上40mのツリートップウォークにさしかかった時、長濱氏が私に言った“今井氏だけ先に連れて行って下さい。”“どうしたのだろう”、と思っていると理由が解った。昨日マロンを食べた後に行った滝の吊り橋が少し揺れた時、今井氏が動揺したのを長濱氏は見逃さなかった。私は揺らして喜んでいたのに。
指示どうり、私と今井氏は皆より先に地上40mのウォークをスタートした。他の人達と別れてスタートしたのは正解だった。今井氏はやはり高い吊り橋が怖い様子で、下を見ないようにしながら、
ゆっくりこわごわと歩いて行った。目の前に見えている木々の葉は、地上40m程にそびえている木のテッペン辺りが、風にゆらゆら揺れているもので雄大な景色だった。この旅行で、後一度だけ吊り橋を渡る機会があった。旅行最後の日にノーザムのエイボン川に架かる吊り橋を渡った時だ。その時の橋は安定感もあり普通の橋に見えたが、良く見ると確かに吊り橋でほんの少し揺れそうだった。目の前の難所を見て、長濱氏と今井氏の顔がまたまたくもった。その時、ちりちりと自転車が、その橋を渡って行った。私は大きな声で“見てください、あんな子供がしかも自転車で渡っていきますよ。”二人は何も言わずにしばらく見ていた。決心したらしく二人の顔の引きつりが若干治っていた。覚悟は決まったのだろう、もうそれ以上の会話はなかった。
巨人の森の大木に圧倒されながら、森を抜けウォールポールへ向かう途中、ローリーはNUYTS WILDERNESS BLOCKと言うもう一つの森へ案内してくれた。途中にわか雨があった為もあり、しっとりとした感じの静寂な森だった。私にとっても初めての場所、小雨が降っていたにもかかわらず、私はバスから飛び降りた。この森の木には、いたる所に大きなこぶを見つける事が出来た。
しばらく歩くと突然そこだけ明るく開けた場所に出た。目の前になんと根元の直径が9mもあるレッドティングルの木が立ちはだかっていた。堂々とした大木に感嘆の声があがる。私は木の端から端まで歩いてみた。大股で9歩かかった。皆は、それぞれこの偉大な大木と記念撮影をしたり、見上げたりしていた。大木に別れを告げ帰り始めた時、さらさらと言う音がした。ふと立ち止まり振り返って見ると、にわか雨の後の澄んだ空気の中で、大木の葉っぱに残っていた雨のしずくが、風に揺られ霧雨のシャワーのように降り注いでいた。陽光と反射し合い、大木の周りが、光り輝いていた。心に残る一瞬だった。この旅が終わった一ヵ月後、私はまたこの森のあの大木の下にいた。あの時ローリーが教えてくれた9mを、自分の大股の九歩で確認したのだが、後で考えるとそんな大きな木がある訳ないじゃないか、とどうしても信じきれなくなってきていた。自分の9歩は4mぐらいの可能性のほうが大きい。と勝手に事実を曲げだしていた。そのやさきに、木の買い付けの仕事でデンマークへ行く機会があり、この森まであしをのばした。そして確認した。やはり9mあった。私の1歩も1メーターあった、と。
10日、ウォールポールよりアルバニーへ
バスがスタートすると、私はいつものようにマイクを持ち“おはようございます。昨夜は良くお眠りになられたでしょうか。”と始める。皆も決まったような返事を返す。今日も元気そうな皆、しかしバスは東の真っ黒な空の雨雲に向かって一直線。雨雲も東へと動いているのだが、バスのスピードのほうが速い。世界一のきれいな海岸をお見せします、と前置きをしているウォールポール、デンマーク、アルバニー、そしてエスペランスまでの海岸線の最初の見せ場、ウイリアムスベイの中にあるマッドフィシュベイについた。綺麗な所である事は判るが、あいにくの小雨で、空、海、そしてその中の砂浜と岩は、皆に見せたかった感じと少し違う。仕方がない。まだ今日は美しい海岸線で有名なアルバニーのフレンチマンズベイも残っている、と意を新たにして一路アルバニーへ向かった。
そのフレンチマンズベイの見所、ギャップとナチュラルブリッジを傘をさして見ていた時、集中豪雨に見舞われてしまった。傘をさしていても皆びしょびしょになってしまったので、予定のマウントロマンス社の工場見学を取り止め、着替えの為直行でアルバニーのエスプラナードホテルにチェックイン。この調子では、明日予定しているウェイルウォッチングはだめかも知れない。今日は雨の為、景色を見る事に関しては今ひとつと言う感じだった。
だが今日予定外ではあったが、ウォールポールからアルバニーに行く途中、デンマークと言う町で、珍木などを扱っている私の友人コリンに会いに行った。グループの中の特に高木氏にとっては、このコリンとの出会いは貴重なものとなるだろう。コリンも高木氏も、金探しの病気にかかっているからだ。
この病気はちょっとやそっとの事では治らない。この旅行が終わってすぐに、私はコリンにあるお願いをした。それはコリンしか知らない金のたくさんある場所に、来年八月始めに高木氏を2泊3日の予定で、金探しに連れて行ってもらう事だった。コリンは、一年中でもブッシュの中で暮らし金探しをしたいのだが、奥さんのケイトが許してくれないのだ。今回のお願いは“タカの頼みだから仕方ないんだよ”、と私を利用した事は、まず間違いない。コリンはすぐにOKの返事をくれた。そのコリンの秘密の場所〔半径1キロぐらい〕で彼は、ここ一年半の間に約四百個の金を見つけている。私も去年その場所に二泊三日で連れて行ってもらい、なんと初めての金探しで、七個もの金を見つける事が出来た。その記念に残る金の1個は千葉県柏市に住む、カメラマンの奥さんが持っている筈なのだが本当に渡ったものやら?ちなみに私は今年もコリンについて行き、金を3個見つける事が出来た。この場所が他人に知られない訳を説明すると、まず4WDで川を2回越える。それだけでも大変な事なのだが、更に三つめの川では川床に下り、川の中を走って行く。うまく後を辿って来た連中も、この時点で分らなくなる、と言う訳だ。ここ数年 コリンは、年に3回金探しに行っているとの事。一度行く度に約一ヶ月程キャンプ生活しながら金を探し回る。一度の旅行で最低二千ドルの金を探してくる。普通オーストラリア人の給料を月給三千ドルから五千ドルとして考えると、仕事にするには少し足りない。去年コリンは一個で一万三千ドルの金塊を見つけた。このような事があるとこの病気はなかなか治りにくい。彼はそのうちに一千万円単位の金塊を探し当てる、と信じていて疑わない。今回、高木氏はコリンの見つけてきた金を何個か買った。コリンが高木氏に売った金の純度をコリンに尋ねたところ、96%〜97%との事だった。
さて話をアルバニーに戻そう。夕方私の友人(仕事関係であり別に怪しい関係ではない)ジェニーと息子のMRビーンが面会にやって来た。毎晩5人が酒飲みの為に揃う部屋へ、招き入れた(その部屋はなぜかいつも、酒を飲まない高木氏の部屋と決まっていた。)。高木氏は子供を喜ばせるのが得意で、すぐにケン玉を持ってきて、天才的な技をMRビーンに披露してくれた。MRビーンは高木氏に貸してもらって教えてもらったケン玉を、しつこく、しかし滑稽に練習した。日本人の中にぽつんと入ったMRビーンは、会話がうまくいかない分を補う為に、賢いかな、MRビーンを演じていた。高木氏は、大事なケン玉をMRビーンにプレゼントした。彼の本当の名前は、ディラン、11歳。
11日、アルバニーでの一日
朝七時朝食9:30分から12:30分までのホエールウォッチングはON、との情報。あまり期待はしないで乗船(あー船酔いが心配だ)。
乗るとすぐに長濱氏がビールを飲もう、と言い出した。こ、こんな朝からですか。船酔いとビール、これはちょっとまずいかも知れない、と思い私は“いえ、いえ、私は仕事中ですから”と手を振りながら辞退した。しかし振っていたその手にはなぜか、ビールを飲む時使うビヤホルダ−が握られていた。私はやけくそになって飲んだ。うまかった。もう一缶と思い、空き缶をぐしゃっとする私の得意な技を皆の前でして見せる。だめだ、誰も気が付かない。空になったビヤホルダーを逆さまにしてチラつかしても誰も気が付かない。あきらめてビヤホルダーはポケットの中に押し込まれた。あれっ、私は先にビールに酔ってしまったようで、船酔いする感じがない。おまけに鯨が出没すると言う湾、プリンセスロイヤルハーバーは全くの凪状態、まずはたくさんのイルカ達が船の周りに来て、皆を楽しませてくれた。潮吹き発見、乗組員の一人が大声をあげた。船が近づいて行くとなんと鯨も近寄ってきた。サザンライトホエールと呼ばれる種類の10メーターぐらいの鯨だった。私はこんなに近くで鯨を見たのは、初めての事だったのでつい興奮して、皆の事はすっかり忘れて“中村さーん、鯨と私を一緒にいれて頼みます、ハイ、ピース”と、中村氏のカメラで中村氏にシャターを押させていた。しばらくして船長が、他の場所に違う種類の鯨を見つけた。ハンプバックホエール、と言うサザンライトホエールより大きくかつ活動的に動く鯨だった。ここでもたくさんの素晴らしいシャッターチャンスがあった。皆大満足の、ホエイルウォッチングとなった。
船内のラウンジで進野氏が、鯨を見た記念に鯨のT−シャツを買うから、通訳して下さい、とやって来た。気に入った絵のTシャツを見つけた。進野氏がこれにすると言った時、客の誰かが言った。それは鯨ではなくてイルカの写真ですよ。よく見るとこの船にあるTシャツの絵は全てイルカである。私は愕然となって、客の相手をしている船員に聞いた。“鯨を見に行く船に、なんで鯨のTシャツが一枚もないの?”イルカも鯨もよく似ているからいいじゃないか、細かい事を言うな、と言わんばかりだ。進野氏は“これでいいよ”と、もうオーストラリア人と同じリズムになりきっている。これが日本なら、お客はあきれはて怒るのでは?と思う。オーストラリアに来ると、誰でもおおらかになるのである。
ホエールウォッチングが終わると、皆それぞれにアルバニーのメインストリートを歩き周り、昼食を取った。私は、ケンタッキーフライドチキンが大好きなのでそこに直行した。午後はまずウインドミルファームへ、羽根が頂点に達した時の全長百メーター、三つ付いている羽根一つの長さ三十メーターもある、という巨大な風力発電機が十二基、堂々と並んで立っていた。自然を大事に考えるオーストラリアならではの設備だ。私は立地条件の揃っている場所なら世界中設置すべき物だと考えながら、環境が経済に打ち勝つ日は、いつの事だろうか?そんな時が来るのだろうか?とガラにもなく、想いをめぐらせた。ウィンドミルファームの後は私の知人で鮑の養殖場を経営しているスティーブの所に行った。日曜日だというのに、彼に休みはない。ちょうど鮑に餌を与えている所だった。彼が孵化させて育てた、まだ小さい鮑をしょうゆとワサビで試食させてくれた。スティーブの養殖場の後は、昨夜以来友達になっている、ジェニーと彼女のパートナー、ペリーの家にお茶に呼ばれた。MRビーンもケーキを焼いて待っていてくれた。その後、マウントロマンス社と言う香水の工場と、そこのお店を見学させてもらいホテルへ帰り着く。この日も色々見る物があり興奮の一日だった。
初めてフットファミリーの旅の話があった時、この仕事をするのは、わが社の頭脳とも呼ばれている、光井で決まっていた。そして忙しい彼女が、11日間、会社を空ける事が無理になったら、旅の中間になるこのアルバニーで、私と交代すれば良い、と考えていた。彼女もとても楽しみにしていた。しかしこの旅行が近づくにつれ、彼女の仕事はどんどん忙しくなっていった。そこで、会社の中であまり役に立たない人間が、スタートより起用される事になった。さてこの光井、私より二十歳近く若いくせに、私の言う事、書く事、やる事の間違いを一々指摘する。例えば私が“もっと膝を割って話せば判ってくれるだろう、”と言うと“腹を割って”ですよ、と。そういう時、私は“そーとも言う”と答える。この間も“あの人は頭が低い”と言ったら“腰が低い”ですよ。と来た。それで私は言ってやった。“そーとも言う”。
去年二人で一緒にツアーの仕事をした事があった。断っておくが、わが社は特別な仕事しか受けない。この仕事はV.I.P用だったから受けた。ちなみに、フットファミリーの場合は、と言うと、面白そうだったからだ。日本に住んでいる人達が、こんな余裕のある旅を企画するなんて、なんとすばらしい感覚だ、どんな人達だろう?面白そうだな、と言う訳である。さて、この二人で受けたV.I.Pのツアーの仕事は、グループに観光をさせながら、姉妹都市であるバンバリー市へ連れて行く、というものだった。そのツアーでは、私は運転手、彼女は通訳兼ガイド。私は運転手なので、運転をしながら皆の話を聞いていた、“光井さん、あれは何ですか?”と牧場の牛の群れを指して、一人のお客が聞いた。回転の速い光井はあの牛は食肉用ではなく乳牛なのです、と言いたかったのだろうが、それも飛び越えて“あれは、牛乳です”と即答した。私は、これは後々使えるぞ、と思いながら心の中で笑っていた。そしてこの際とばかり、わざと大声で言ってやった。“そーとも言う”と。
何はともあれ、今回の旅は皆が嫌でも引き続きエスペランス、バラドニア、カルグーリへと私が同行する事になる。
12日、アルバニーよりエスペランスへ
本日は約五百キロの走行距離がある為、朝早めの8:30出発となった。アルバニーを出発すると、すぐにダーリングレンジ高原にあるブラフノーズという西オーストラリアで一番高い山を正面に見ながら進み、その素晴らしい風景を楽しんだ。その麓を通り抜けると後はただひたすら東へと走るのみ。ここは私の出番である。ない頭を絞って何個かくだらないジョークや話をした。受けが足りない時には“あれ何で笑わないの”と催促をしたりした。スポーツの話をしている時に以前、 ある落語家から聞いた、こういう話をして、受けを狙った。
“私事で恐縮な話ですが、実は私、高校三年生の時、高校総体、軟式テニスは準決勝まで” ここで話を切り皆を見回す。先ほどまで寝ていた人達も皆、目を覚まし、耳をすまして、次に予想される言葉を驚きと、しかし確信を持って待っている。そこで閉めの言葉をすばやく出す。“見に行きました。” くだらないジョークなどは別として、アルバニー付近からポートヘッドランド付近まで南北へ1820kmにも及ぶといわれる野兎を通さない為のフェンスや、ローリー以外にはあまり知らないと思われる、道端に咲いていたパイナップル程もある巨大なバンクシアの花実を見たり、と興味深いバス旅行となった。予想したほどの疲れもなく五百キロを走破し、すばらしい海のエスペランスに着いた。
13日、エスペランスでの一日
予定表では午前中CAPE LA GRAND NATIONAL PARK、午後自由行動、午後は日本人ガイドは休み、となっていた。“休み、なにそれ?冗談じゃない”と言ってしまう程、このガイドは皆と一緒になって楽しんでいる。この日の予定は運転手ローリーの絶賛の島巡りを午前中に加え、午後 ケープラグランデナショナルパークへと、変更された。
島巡りは素晴らしいの一言に尽きた。皆の旅行記にも出てくるだろうから詳細は省くが、自然豊かなパースに25年も住んでる私がこのエスペランスの自然のすばらしさに感動した。私は、鮑のたくさんいそうな岩場を見つめながら誓った。近い将来、家族を連れてここにまた帰って来るぞ、と。朝、船に乗る前に船着場の正面にあったレストランを指して私は言った。お昼はここで食べたら良いと思います。ここのウェイトレスは、実に動きがいいんですよ。言い方が悪かったのだろうか、それを聞いたフットファミリーのおじさん達が一斉に疑いのまなざしで私を見た。タカおまえは本当にいやらしい奴だな、と言わんばかりに。“いえ、そういう意味ではなくて”と弁解すると、ではどういう意味だ、とジロジロと私を見ている。前回ここで食事を取った時、本当に愛想が良く、動きが良かったのでそう言ったのだが。こういう誤解を受けた時は、あまり弁解はしないほうが懸命だ、と直感し、私は黙った。皆がどんどん私の事を理解してきて、先入観が先に出てくるようになってしまった。これはまずい。三年前、私の息子が18歳になった日に、息子を私の行きつけの、水着の若い娘達がショーをやる飲み屋に連れて行ってやった。息子はとても喜んだ。それを日本に帰った時、私の兄に話したら、おまえはどういう親だ、と嘆いていた。私には、なぜそう言われなければならないのか理解出来ない。この時も黙るしかなかった。
さて、午後はケープラグランデナショナルパークだ。バスで向かう途中、このナショナルパークの名前を発音出来なくて、ドライバーのローリーに思い切り笑われてしまった。タカ、この町にはフランス人が先に移民してきたから、フランス語の地名が多いのだ。フランス語だからこういうふうに、発音するのだ、と言ってペラペラと鼻にかかるフランス語で発音して、また私を笑った。 しかし、この時私はしめた、と思った。というのも、私がいつも聞いている漫才の中に、フランス語が出てくるやつがあるのだ。よーし!これで行こう。一度、頭の中で言う言葉を反芻してから、胸を張って、皆と特にローリーに聞こえるように言ってやった。口をあまり開けないで、早口で喋り、語尾を強めるのがコツである。
アン(1)、デゥー(2)、トワ(3)(唯一私が知っているフランス語)ジュトジュデ ニジュウ(10と10で20)イカノアシハッポン、タコノアシジュポン(イカの足八本、タコの足10本)
タ、タカはフランス語ペラペラじゃないか!ローリーは蒼ざめてだまってしまった。私のぺらぺらフランス語にびびったローリーの顔を見て、彼がフランス語をほとんど理解出来ないと、確信した。く、く、く、ざまーみろ!と思っていると、高木氏にしっかり指摘されてしまった。“タコの足が八本ですよ。”フットファミリーには、ばれてしまったが、ローリーには最後まで シカトした。
さて、このナショナルパークの海と砂があまりにもきれいなので、途中の高台で写真を撮る為に一旦バスから降りた。きれいな海岸線を見ていると、なんと遠くの海の中で、鯨が何度も繰り返し垂直にジャンプしている。こんな光景は初めてだ。慌てて写真を撮っていたら、今度は目の前にカンガルーが飛び跳ねているではないか。オーストラリアならでは、の光景だった。よく見ていると、鯨のすぐ近くの岩場でジャンプする鯨を見ている人達がいるではないか。即、私達もそこまで行く事に決めた。ローリーは、車を岩場の近くの駐車場まで移動させてくれた。あとは歩いて鯨の見える岩場まで歩いた。運良くその岩場に着いた時、鯨はまだそこにいた。たくさんのシャターチャンスがあった事と、私が中村氏をつかまえ、私と鯨の写真を撮らせた事は、当然の成り行きとなった。岩場を歩いていた時、私の目には海と岩場の接点付近ばかりが、写っていた。そしてポケットにはスプーンが忍ばせてあった。分らない人達の為にあえて説明するとそのスプーンは、鮑がもし散歩などしていて、偶然私に出くわした時の為のものだった。
14日、エスペランスよりバラドニアへ
今日はエスペランスを出発すると、サーモンガム 〜 ノーズマン 〜 バラドニアと言う面白い地名の場所ばかりを通る。サーモンガムという町は、サーモンガムと言うユーカリ科の木がたくさんある為に、名ずけられたものだろう。サーモンピンクと言う色(うすいピンク色)があるが、この木の木肌は切って見ると、とても綺麗でユーカリ科の木の中でも特に私の好きな木だ。ノーズマンは馬の名前だったらしい。その馬がこの場所を通った時、木に繋がれて一休みする事になった。その時ひずめで掘ったところから、偶然金が発見された。そのような歴史からこのノーズマンという、金鉱の町が誕生した。本日の最終目的地のバラドニア、名前だけ聞くと、どこの外国だろう、と考えてしまうような名前の町だ。この町は何年か前に、アメリカの人口衛星の破片が落ちて来た事により、有名になった。またこの町は、西オーストラリア側の最西端ではあるが、南オートラリアへ続くナラボー平原の中の一つの町としても知られている。空気がきれいで星もきれいに見える所だ。エスペランスから北へ向かう道は、私にとっては、まだ見たことのないユーカリの木やそのコブを眺める事で、大変楽しいものとなった。途中、列車の写真を撮る為に線路の横でバスを止めた。列車が通り過ぎた後ローリーが叫んだ。タカ,このマリーの根どうだ?どうだ、と言われてもこんな大きな、しかもドロのたくさん付いた木の根を持って行ってくれる、と言っているのだろうか?彼は私の為にこの木の根を運んでやってもいい、と思っているようだ。私は瞬時に決断した。旅の記念に、この木を使ってローリーに何か作ってプレゼントしよう、と。
ローリーの気持ちが分った以上、私の木収集に固執する癖は、留まるところをしらなくなった。バラド二アでも、ホテルの裏の焚き木をオーナーにもらいにいった。ただでもらうのは申し訳ないので、高木氏が作った木のツルで編んだ籠をお礼にあげた。とても喜んで、後でお礼を言いに来てくれたので、私は、さらに数本焚き木をもらいに行った。フットファミリーの皆も落ちてる木を拾ってきてくれたりした。特に高木氏は動きが良く、目の付け所も良いので、良い形のものを数個拾ってきた。そのうちの一つは皆が帰る日曜日に磨きあげ、飛行場へ見送りに行った時、フットファミリーの長、長濱氏にプレゼントした。高木氏には来年プレゼントするチャンスがある予定だ。
15日、バラドニアよりカルグーリへ
今日は旅行最後の宿泊地となる金鉱の町カルグーリへ出発だ。景色は相変わらず色々なユウカリ科の木が続づく。皆、同じような景色にそろそろ飽きてきた。私の洒落やジョークも出尽くしていた。
全く関連のないミステリーの話をする事にした。
“いつものように仕事が終わり、行きつけのお店で一杯飲み、駆け込み乗車で最終電車にやっと間に合った。ふと目についた正面の長椅子に座っている男、赤ら顔で汚く実に嫌らしい顔をして俺を見ている。俺は不快感を隠しきれず、目を閉じて先ほどまで一緒に飲んでいた綺麗なママの事を考えた。薄目を開けて見るとまだあの男が、更にいやらしい目で俺をジーと見返した。俺は我慢出来なくなり一言言ってやろう、と立ち上がった。すると奴も同時に立ち上がりやがった。俺はハッと気が付いた。相手は窓ガラスに映った俺だった。”
文章にすると意外と簡単なのだが、思い出し、思い出し、皆に話すとなるとなかなか難しい。この話は、話し方が下手だったので、あまり受けなかった。
カルグーリに着いた。ここでは二つの金鉱を見る予定があった。一つ目はオープンカットと呼ばれる金鉱、屋根なしですり鉢状に崩しながら砂を運び出し砂金を採る方法の金鉱だった。オーストラリアらしいサイズの大きさに驚いた。さて、二つめのアリのように地下に潜って行く金鉱のツアーに思わぬ落とし穴があった。そのツアーでは、まず金の延べ棒を作る作業の実演があった。炉の中で赤く熱されている金が、鋳型に流し込まれた。この時熱で溶けた金が手に飛んできても、私は我慢して何食わぬ顔をするのだ、と心に決めた。金のしずくは飛び散る事もなく、鋳型に収まった。しばらくして、金の延べ棒は水の中で急冷された。この一千万円以上もするだろう、と予想される金の延べ棒を手に持たしてくれた時、今これを持って、走って逃げたらどうなるだろう。警備は手薄だ。と考えた。しかしそんな度胸もなく、せめてと思い、爪でガリガリやっておいたが、後で調べてみた所、爪の中には、黒いゴミしか残っていなかった。実演をしたおっさんが、後で教えてくれたのだが、この金の延べ棒は実は偽物だった。さも金のように扱いやがって、こいつは詐欺師だ。何で先に教えてくれないんだ。火傷の覚悟や爪の痛みは、どうしてくれる、それにもし、例の“嫌な虫”が出て来て、偽の金の延べ棒をかついで、逃走でもしていたら今ごろ笑い話じゃないか。この実演の後、実際の金鉱に狭いエレベーターで入るツアーがあった。ローリーは最初に、私は行かなくてもいいよね?と聞いたので私は何も考えずに、私が通訳するからいいよ。とOKした。私は狭所恐怖症だったという事をエレベーターに乗って降りて行く最中、ジワーッと気付いた。だがもう遅いフットファミリーは美佳ちゃん、怜ちゃん、も皆ツアーに参加していた。まさか通訳が行かないで上で待っているような事は許される訳がない。好き勝手にバスにたくさんの木を、積み込んだりしてしまった後でもある。行くしかない。エレベーターが小さいので、我々は三班に分かれて降り、地下で集まる事になった。私は通訳だから一班で降り、帰る時は三班目で上がって来る事になるのだ。皆より長く穴に入っていなければならない訳である。まずい。快適な旅行にいきなりの大きな落とし穴だ。エレベーターで降りる時、吐き気と頭痛がしてきて、今にも爆発しそうな不安感に襲われた。下に着いた時、進野氏がまるで私と同じ気持ちになっていたようだ。進野氏は、次のグループを連れに上がったエレベーターで逃げ帰った。私は、子供達でもがんばっているのだ、と心に言い聞かせ、この不安感が波立たない事を祈った。この永遠にも感じられる時間。人の気も知らないで、金鉱のツアーを担当したおっさんは、何十年もこの地下で働いていた奴らしく、要らん事を長々と自慢げに話していた。私はしょっちゅうやって来る不安感で、吐き気をもよおしながら、ほとんど通訳はできなかった。心の中で早く終われ、早く終われ、と百回ぐらい叫んだ。自慢げなおっさんに、子供もいる事だし、もうそれぐらいでいい、と言う顔を何回も見せたが、水を得た魚のようになったこのおっさんに、通じる筈はなかった。モグラの世界から帰りついた時には、取り合えず安心はしたがグロスターツリーから降立った時の、すばやい回復力はなかった。吐き気と、どんよりした頭痛はこの夜、酒を飲むまで残った。地球は暗かった、などと言うようなジョークも出なかったし、待っていたローリーが私の心を見透かし、笑っているように見えた。モグラのおっさんが言うには、一番お金をもらう仕事は爆破したトンネルの岩石を移動させたり、狭いトンネルの中の落ちそうな石を、長いバールのような物を使って落とす仕事らしく、八時間で二千ドル貰える、との事。お金は魅力的だが私には絶対出来ない。金に価値があるのは、当然の事だと実感した。今、筆を置いてふと気付いたが、ズーンとした頭痛がしている。この文章を書いている間に、あの時の感じが戻ってきてしまった。
さて今夜泊まるヨークホテルは、町が金鉱で活気づき始めた頃の建造物で、現在では貴重で高価な西オーストラリア州だけにしかない、ジャラの木がふんだんに使われていた。水の少ない荒野のカルグーリを目指したのは、ゴールドフィーバーと呼ばれる病気にかかった者達で、もちろん男達が大半を占める。(私も現在約二名知っている)その為だろうか、シャワーやトイレが大雑把に出来ている。このホテルも合宿所みたいな感じだった。しかし、このホテルに泊まらなければ、昔から金鉱で栄えて来たらしいカルグーリの町の、雰囲気を充分に味わう事は出来なかった、と思う。
ここカルグーリには西オーストラリア州の他の町にない二つの物があった。それは公営ギャンブルになっているツウアップという賭博場がある事、と売春が公認になっている事だった。ツーアップについては現在は使用されていないが、昔から行われてきていた場所を見学に行った。現在オープンされている所には、結局行かずじまいだった。皆、興味がないのである。私の場合、金がなかったのである。
次に公認売春宿の話をしよう。まず何故この町だけいきなりそのような事が許されるのだ。と言う単純な疑問が湧くと思う。その答えは簡単。ここの町はゴールドフィーバーの男達ばかりで出来た町であった為である。女性に不自由していた訳である。カルグーリの夜は、フットファミリーの男達だけで、外に飲みに出た。なぜか皆は公認売春宿のある通りと、我々が泊まっているホテルとの位置関係を、良く知っていた。私達はまずバーを探しにホテルから公認売春宿と反対の方向へ歩いた。私は天性の感を効かせ水着のお姉ちゃんのいるバーをすぐに探し出し、そこで飲んだ。さて、いよいよ公認売春宿である。バーでは、今回の旅行に奥さん連れで来ている加藤氏も加わってくれていたのだが、ホテルを通りすぎて売春宿へ向かった頃には、わずかに、私と中村氏と進野氏しか残っていなかった。やはり最後はこの三人か。まーいいか。この有名な通りには四、五軒の公営売春宿があり、その中でも一番有名な所に二人を案内する事にした。行きたくない私も行かなければならない、ガイドという仕事は大変なものだ。行きたくなくても、お客が行く、と言えば連れて行かなければならない。この宿は有名な為、昼間には観光のツアーが許されていた。夜には商売の邪魔になるのだろうか、ツアーはなかった。私達は十ドルずつ払って客として中に入った。もちろん、私も中村氏も実際の商売のほうは、資格外である為、ひやかしに入ったのである。中にはラウンジがあり、そこに座ると二人の女性がやって来た。私達はその女性達とコーヒーを飲みながら、気楽な話をした。この時お客である私達は、本当なら品定めをしている訳である。進野氏は資格はあったのだが、私達が邪魔して連れて帰ってきた。入場の記念にボールペンを三本買い、それぞれ一本ずつ持って帰った。
16日(最終日)カルグーリよりパースへ
本日は西に向かってまっすぐパースまで帰る旅になる。太陽が西へ落ちすぎる前に、距離を伸ばしておかないと、西日に向かう運転は非常に疲れる。最初のストップはクーガ−デイ、ここも金鉱の町、次がサザンクロス、昼食はメリデンのガソリンスタンド、メリデンを出てパースからカルグーリを通りシドニーまで延びている鉄道線路沿いに走っている時、ローリーがエバーラステイングの花を道路沿いに見つけ、止まってくれた。とても綺麗な花で、西オーストラリアのワイルドフラワーの代表的な花だ。写真を撮る為に皆にも降りてもらった。花を見てバスへ戻ろうとした時、遠くから列車の音が聞こえてきた。あの有名な大陸横断列車インデアンパシフィック号だ!今回は偶然だったが、またしてもローリーが、いいシャッターチャンスを作ってくれた。
次に止まったのはノーザム、例の今井氏のエイボン川に架かるつり橋の場所である。ノーザムの町は緑が多く、エイボン川には白鳥がゆったり泳ぎ、時間がゆっくり進んでいる感じを与えてくれた。カルグーリからパースまで移動している間中、大きな土管が右や左に現れた。これはパースのマンダーリングウェアーというダムからカルグーリの町へ水を供給しているカルグーリの住民にとっては、不可欠の水道管である。ローリーは、その水道管のスタートの地点になる、マンダーリング ウェアーも旅程に組み込んだ。西日を受けながら走り続け疲れきった後に、今日一日中、現れては消え、また現れた水道管の謎と、金鉱の町カルグーリとその周辺の町にとって、いかにそれが重要な物なのかを、皆に納得させようとしていた。たいしたプロ根性だ。昔、カルグーリで、手を洗う時、水とシャンペンがあり、その男はためらわずにシャンペンを使った、と言う話をローリーがしてくれたのが、印象的だった。
無事パースのセベルホテルに到着した。ローリーは別れをとても惜しんだが、出来るだけ顔に出さないようにしていた。もし、私もローリーと同じ立場で、皆に別れを告げなければならなかった、としたらかなり辛かった事だろう、と思う。しかし私は次の日の夜に会える事が決まっていたので、意外と気楽に別れる事が出来た。
終わりに
皆が帰国する18日、日曜日、私は相変わらず昼食のカップヌードルを持って、友人のピーターの農場で朝から木を磨いていた。今日は少しだけ早めに、少な目のビールを飲み帰途についた。飛行場へフットファミリーを見送りに行く為だった。皆との別れ際、男性とは握手を交わし今井婦人と加藤婦人には頬っぺたにキスした。男達の視線が私に集中した。意外なことに、今井氏と加藤氏以外の男達であった。男達の目が私に言った。日本人だろう。そこまでやるか、破廉恥な。
ベー、私はオーストラリア人なのだ。旅が終わった二週間後、ローリーが私のオフィスに来た。ノーズマンの鉄道線路の横で拾ったマリールーツの置物が完成した。彼は相変わらずの気配りで、大袈裟に喜んでくれた。偶然だが、この木の根を削る時、切り落とした部分がなんと足の形をしていた。わたしはその切り落とした部分を使い、現在フットファミリーに記念の品を製作中、乞う期待。
私は今回の旅行でつくずく思った。人は旅をしながらその時、その場、出合った人達を自分の今までの人生の中の出来事と照らし合わせ、感動したり、あるいは反省し、自分をより豊かな人間に上げて行こうとする、と。旅をすると、そういうものが自然に導き出されて行くのがうれしい。今回の、時間に贅沢なフットファミリーの旅を、偶然ながらも一緒に経験させてもらえた事で、私に大きな自信と活力が与えられた。
フットファミリーの皆さん、ありがとう。
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